過去の偉人たちの主張はブロックチェーンはおろか、インターネットすらも存在しなかった時代の理論です。過去の理論をブロックチェーンというテクノロジーがある現代において、改めて読み解くとどのような見方ができるのでしょうか?今回は、著名な政治哲学者であるホッブズとルソーの理論にブロックチェーンという視点を加えることでどのように解釈をし直すことができるのかについて考察をしているこの記事を翻訳することにしました。
私たちの目指しているものや取り組んでいることは今も昔も本質的には変わらず、手段として技術があるということを改めて知るきっかけになるかもしれません。これは、ブロックチェーンを使って何をするのかではなく、何かを実現するためにブロックチェーンが利用できるかもしれないということです。この記事を読まれている方々は、Web3やブロックチェーンそのものに熱狂している方々が多いかと思いますが、各人が見据える青写真を思い描くきっかけとして、古典を参照するのも良いかと考えます。
この記事は、Jon氏による投稿を許可を得た上で日本語に翻訳したものです。Jon氏に感謝申し上げます。
This article is an official Japanese translation of a post by Jon. Thank you so much, Jon.
元記事(2022年11月2日):
以下、翻訳です。
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現代の政治、そしてその根底にある啓蒙主義以降の政治理論は、マンネリ化しています。1789年のフランス革命以来、貴族が議会の右側に座り、平民の代議士が左側に座ったため、私たちは政治スペクトルを表現するために右派・左派といった言葉を使ってきました。
政治的偏向が定着してしまったので、出口が見えにくくなっています。ここ数年で政治的言説の温度感は劇的に上昇しましたが、それは何十年も前から続いている現象なのです。以下は、1949年から2011年までの米国下院の偏向を可視化したものです。
以下のような説明にとどめますが、2011年以降、状況は一向に好転せず、どうすればこのサイクルを断ち切れるのかがますます分からなくなっています。私たちは、自分たちが身動きが取れなくなっているというありふれた谷から抜け出すような新しい政治哲学のパラダイムを必要としています。
民主主義社会の右と左の歯車は、政治理論の基礎となった2つの著作によって生み出された轍に深く嵌め込まれています。つまり、ホッブズとルソーのことです。右と左の原点に立ち返れば、小さくて、ローカルで、多様で、分散した統治構造のより幅広い領域をサポートすることに焦点を当てるために、現代のテクノロジーと古来の社会慣習は、右と左の対立を放棄したより説得力のある未来を提供してくれるということを理解することができるでしょう。
右派の祖先はホッブズです。ホッブズは想像上の人間の本性である「万人の万人に対する闘争」を避けるために、中央集権的な主権者のリーダーシップの必要性を唱えました。ホッブズが自らデザインした『リヴァイアサン』の表紙イラストを見ることで、細かい説明を省いて彼の考え方の基本を理解することができます。王冠を被り、颯爽とした口髭を生やした白人の巨漢が、片手に統治の杖、もう片手に戦争の剣を持ち、文字通り人間でできた君主が父として文明の都市を見守る姿が描かれています。
これに対して、左派はルソーに人類の社会契約を定義することを求めています。当時、ルソーの『社会契約論』は、主権というものはトップダウンの現象だけではなく、ボトムアップの現象であるという急進的で新しい視点を提供しました。従来の全権を持つリヴァイアサンの支配者に代わり、人々から正統性を得る政府システムに置き換える自己統治の方法を人々は考案することができました。
ホッブズとルソー、右翼と左翼、独裁と民主、中央集権と分散などといったよく知られたスペクトルに沿って類推するのは簡単です。しかし、この二項対立は自己統治に関する他の考え方を見えなくしてしまいます。
ルソーの『社会契約論』は自治という重要な原則を打ち出しましたが、現代の左派が失敗する傾向があるのと同じように、『社会契約論』は失敗に至ります。つまり、希望に満ちたオルタナティブの片鱗は、結局は複雑な官僚的抽象概念によって損なわれているのです。
ルソーはホッブズに代わる偉大な人物と考えられてきましたが、彼の著作を現代的に読むと、ルソーはホッブズの家の家具を並べ替えただけという印象を読者に与えてしまいます。この問題は、二人とも君主制と大規模な主権国家の思想に深く根ざした時代と場所に由来するということです。ホッブズはこの状態を必要なものとして正当化し、技術官僚の行政による統治構造の変更はより大きな平等を促進できることをルソーは提案しています(聞き覚えがありますか?)。
結局のところ、現代政治哲学のこうした流れはいずれも、統治は何百万人という規模で行われるという前提に依存しているのです。これらの哲学は、王国から国民国家への移行の中で生まれ、形成されたものです。そして、その哲学がもたらした結論は解決しようとする問題の規模に制限されます。
しかし、ルソーは当時の文化的に受け入れられた基準から外れた別の道を指し示すいくつかのヒントや小さなパンくずを残しています。最初のパンくずは、『不平等の起源に関する論考』の前文にあります。
これは図々しいやり方ですが、ルソーは「最も栄誉があり、壮麗な、君主的領主」にこのエッセイを捧げる機会を6回設け、残りの機会を自分が住みたい社会のあり方、つまり君主的領主のいない社会について述べるために利用しています。
その代わりに、彼は「すべての人が平等であり、[中略]人間の能力の限界に比例した範囲を持つ」社会について述べています。つまり、小さく、協力的で、民主的な都市国家のことです。
どの国も他国を攻撃することに関心を持ちませんが、他国からの攻撃を防ぐことに関心を持っている複数の国との間に位置する自由都市です。つまり、隣国の野心を誘うものは何もないが、必要な場合にはその援助に頼ることができる合理的な共和国のことです。
2つ目のパンくずは、彼の代表的な著作である『社会契約論』の序文と脚注にあります。序文で、彼は「偉大な人々の対外的な力を、小さな国家の管理のしやすさ、および秩序の良さとどのようにして組み合わせることができるのかを後で示しています」と主張しています。後の脚注で、彼はこの問題に取り組むために「連邦国に至ったとしながら」、その追求を「長い間放棄」しており、「残りの著作はもはや存在しない」ことを認めています。
自分が生きているかどうかを決める主権君主のために与えられた影響を理解したため、ルソーがこれらの道を断念したのか、もしくは、当時の主権者や国民国家を超える未来を想像しようとして精神的な障害に陥ったのかは知るよしもありません。しかし、私はこの2つのパンくず、つまり、小さくて、ローカルで、協力的な政治構造の好みとこれらの構造を持った自律的な連邦国という考えが、より良い社会契約への道を示していると信じています。
アメリカ合衆国の建国者たちは、このことを基本的に理解した上で、半独立の州からなるバランスのとれた連邦国家を作り上げたと思われます。その建国は政治的な進歩の奇跡ですが、ルソーの哲学と同じ2つの限界に苦しみました。それは、既存の君主制に深く根ざした文化と成長する国民国家に対応した行政システムを構築する必要性の2つです。
彼らの目標は、極めて限られた交通や通信の技術を持って、25万平方マイルの土地に広がっている250万人にも及ぶ王の元臣下たちを組織することです。このような現実から、テーブルの上の選択肢は限られており、さらにルソーとホッブズの政治的な実現性のスペクトルの境界線によっても制約がされていました(もちろん、正確には多様な意思決定主体ということではない事実ではありませんが)。
このような限界を考えると、現在の政治状況は驚くようなことではありません。連邦制の構造という壮大な試みは結局のところ再集権化であり、ホッブズとルソーがそれぞれ提示した基本的な社会契約に凝り固まった忠実度の低い政党の二重構造に陥ってしまいます。強者への服従に囚われるか、不平等を管理するためにますます複雑化する官僚的な管理に囚われるかのどちらかを選ぶというのは非難されるべき選択です。
一歩下がり、これらの政治哲学の起源を辿り、オルタナティブを探したとしたら、どうなるのでしょうか?今、私たちが自由に使えるコーディネーションツールの文脈の中で、より理にかなった他のアプローチはありますか?
もし西洋の政治哲学の罠に対するオルタナティブを見つけたいのであれば、その出発点は明らかに非西洋文明の極めて過小評価されている政治組織です。David GraeberとDavid Wenrowの『The Dawn of Everything』には、西洋の政治理論ではよく理解も説明もできない政治・社会構造の歴史上の例が広範囲に渡って記されています。最近歴史を書いているWEIRD(西洋(western)、教育(educated)、産業(industrialized)、金持ち(rich)、民主主義(democratic))社会には、人々が自己組織化できる他の方法に対する重要な文化的盲点があります。基本的な文化的な物語(エデンの園の単純な平等主義的部族、農業とヒエラルキーの出現、国家と経済の発展、リヴァイアサンと不平等という必然的に生じるトレードオフ)は唯一の道ではありません。
私たちは、人類の歴史において、平等主義か階層主義かのどちらかを選択する必要はないのです。私たちの初期の祖先は、私たちと認知的に対等であっただけでなく、知的にも同類でした。人類の社会生活に関する最古の証拠は、政治形態のカーニバル・パレードに似ていることが次第に明らかになってきています。
ルソーが描いた社会は、単なる抽象的な理想ではありません。それは、政治制度や社会契約に対する非常に多様なアプローチと並んで、歴史の長い間、ある集団の人間たちが生きてきた現実です。ここでの目標は、戻るべき抽象的な理想主義的部族国家を特定することではなく、私たちが利用できるすべての選択肢を検討し、多くの局所的な実験を行うことです。
政治学はそれ自体、科学に関するものではありません。過去半世紀の間にほとんどの学問は物理学に嫉妬し、すべてを科学に変えようとしました。しかし、国民国家についてどれだけ統計的な分析を行ったとしても、政治学の問いは、私たちがどのように生き、自分自身をどのように統治すべきかという哲学的な議論にほかならないのです。国民国家はそれほど多くありませんし、国民国家において通常は学者が統治に関する実験をすることができません。
政治学という分野は、主権主体の研究とホッブズやルソーの歴史的偏見によって定義されています。しかし、一部の政治学者はWEIRDの盲点から脱却し、他の自治の方法を模索してきました。この政治学の伝統を最初に探求したのはElinor Ostromであり、彼女は伝統的農業社会における灌漑のネットワークに焦点を当てながら、共有資源と集団行動問題の問題を研究していました。
Ostromの優れたエッセイの1つである「Beyond Markets and States: Polycentric Governance of Complex Economic Systems」の中で、「人間は初期の合理的選択理論で想定されていたよりも複雑な動機付けの構造と社会的ジレンマを解決する能力を持っている」と述べています。人間が自己統治する複雑な適応システムを理解し改善するために、「実験的な設定で変数の正確な組み合わせの効果を調べることが重要だ」と彼女は主張しています。
大学時代にOstromに心酔していた私はこの目標に向かって卒業論文を書きました。(Ostromと共に博士号を取得した)指導教官のTun Myintの指導の下、私はMarco Janssen(Ostromの共同研究者)が作成した共有資源シミュレーション・ソフトウェアを使った実験を行いました。この実験では、学生のグループを集めて、共有資源を管理するコンピュータゲームを実施しました。私はコミュニケーションや情報の制約が異なる中で、共有資源をいかにうまく維持するかを研究しました。
乏しい学問的資源を使った初歩的な実験デザインでした。他の環境に対して合理的に抽象化できるような結論はなく、実験的な政治学というオストロムの夢は、現実の世界では絶望的なものに感じられました。政治学という学問は哲学的な根源の問題に囚われたままでした。何が起こるか確かめるために、現実の世界で新しい政府を立ち上げただけではないと政治学者は考えていたのです。
今、私たちはできるのです。歴史上の人間の組織の膨大なタペストリーから情報を得て、ブロックチェーンツールを使って、新しいコーディネーションモデルを作ることができるのです。ルソーのように理論的なエッセイを書いたり、学術コンテストに応募したりするのではなく、歴史を研究したり、現実の世界で実証実験を行ったりすることで、新しい社会契約を設計することができるのです。
左翼と右翼の二項対立は、ますます誤った選択になっています。この二項対立は、王政であれ連邦官僚制であれ、大きな社会を組織し、法の支配を実施するための基本的な要件としてリヴァイアサンを扱っています。
ブロックチェーンが根本的に面白いのは、ホッブズやルソーの基本的な仮定を人間の管理者を必要としないテクノロジーにリファクタリングすることです。つまり、ブロックチェーンは新しいタイプのリヴァイアサンです。ブロックチェーンによって人々が効果的なコーディネーションを行うキャプチャ耐性のある小さなポッドに自己組織化できるようにすることで、必要な統治規模に関する基本的な仮定を書き換えているのです。
ブロックチェーンは国民国家による暴力の独占に完全に取って代わる準備ができているとは思いません。しかし、iPhoneがみんなのポケットにスーパーコンピュータを入れたのと同じように、ブロックチェーンはみんなの秘密鍵の中に主権の基本的な構成要素を入れるのです。
主権主体を追加することなく、**メンバーに不変の統治権を与える組織を誰でも作ることができ、望むならば、その組織のために独立して制御される通貨を誰でも作ることができます。**最後の章を何度も読んでください。そして、もしこれが可能だとルソーに伝えたら、彼はどのような反応をするのか考えてみてください。
DAOはソーシャルスマートコントラクトです。それぞれが独自に文化的規範と不変のルールのセットを実体に落とし込みます。コーディネーションと自治のためにブロックチェーンツールを積極的に開発したり、テストしたり、探求したりするためのソーシャルウェアとトラストウェアをDAOは用いています。
このような組織の構築と運営を通じて、私たちは人々が共に働くためのルール、規範、振る舞いといった幅広いデザイン空間を試すことができます。このようなカオスの中で、私たちは過去の知識を未来の道へと応用する政治システムを開発することができるのです。
過去18ヶ月の間に、いくつかの原則が多くのプロジェクトで同時に展開され、これらの新しいツールの独自の力に関する根本的な真実に向かって指摘しています。DAOについてますます明確になってきた原則の1つは、多様で分散化されたガバナンスを通じて緩やかにコーディネーションされた小さな自律的なポッドの必要性です。VitalikはDAOに関する直近の記事でこのモデルについて書いており、Metropolisはポッドのためのオンチェーンマネジメントツールを開拓してきました。
ほとんどの分散型組織では、ポッド、ワーキンググループ、フェローシップ、ギルド、SubDAOなどのように物事を成し遂げるには小グループが必要であるという認識に至っています。どの程度の人数のグループで仕事をするのが好きかと尋ねると、一般的には2人から12人だと答えるでしょう。Amazonはこのコンセプトを表現するために2ピザチームという言葉を広めたことで知られています(ただし、Cabinでは1サウナチームを好んでいます)。
なぜなら、調整コストは幾何級数的に増加するため、より多くの人々を増やすことでは良い成果にならないのが通常です。この調整コストは、メトカーフの法則の裏返しです。
マクロ経済学では規模の経済という考え方が生まれ、国民国家のマクロ政治の文脈においても同様の計算がなされています。しかし、ミクロ政治学(小集団の集団行動に関する研究)と呼ばれるものでは、規模の拡大には大きなコストがかかります。中央集権的なコーディネーションメカニズムに助成金を与えて援助したり、マネジメントメカニズムを信頼したりするのに、規模の経済を利用する必要がない場合は、既定のサイズは小さくなり、トポロジーはネットワークとなります。
長年インパクト・ネットワークの研究をしたり、発展をさせてきたりしたDavid Ehrlichmanは、このネットワーク・トポロジーが時間とともに成長する様子を図式化しました。
このような小さな自己主権的主体のネットワークは、ルソーの最も偉大な著作の余白にほのめかしたものとよく似ているように見え始めています。私たちは、「自律的な連合ネットワークに組織された、小規模で、局所的で、協同的な政治構造」というルソーが理論化し始めたことを実際に再発見しているのです。
しかし、それらがどのように機能し得るかについて理論化する必要はもはやありません。ブロックチェーンリヴァイアサンが提供する統治と自己主権のツールを使えば、こうした複雑なネットワーク構造の探求と創造を始めることができるのです。願わくば、それらがより良い社会契約への道を指し示してくれることを願っています。
このエッセイに対してアイデアとフィードバックをくれたLauren AlexanderとChase Chapmanに感謝申し上げます。