以前扱った「ハイパーストラクチャー」の記事でクリプトプロトコルはPublic Goods(公共財)としての側面があるとした上で、公共財とは「消費の非競合性」と「消費の非排除性」の両方の性質を備えた財を指すということを述べました。しかし、より価値のある形で公共財としてのクリプトプロトコルを実現するためには「正の外部性」をもたらすことが重要であり、辞書的な定義としての「非競合性」と「非排除性」だけではクリプトプロトコルを構築するには不十分であり、クリプト公共財を成り立たせる要素として正の外部性が必要になるという見方がされています。今回は、クリプトプロジェクトをより価値のある公共財とする正の外部性という考え方をはじめ、公共財としてのクリプトプロトコルについてより深く考えることができるこの記事を翻訳することにしました。
この記事は、Other Internetによる投稿を許可を得た上で日本語に翻訳したものです。Other Internetに感謝申し上げます。
This article is an official Japanese translation of a post by Other Internet. Thank you so much to Other Internet.
元記事(2021年7月2日):
以下、翻訳です。
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クリプトプロトコルは、そのオープンソースとパーミッションレスという性質のおかげで、公共財に関する一般的な議論を再燃させました。実際、ブロックチェーンの透明性とアクセシビリティは、自由な取引と連携のモデルを既に再構築しています。しかし、クリプトプロトコルはオープンなネットワークとして運用されていますが、民間資本だけで構成されている場合、本当に公共性を実現できるのでしょうか?範囲、アクセス、所有権の問題は、インターネット上で何が公共的であるかについての我々の理解を複雑にしています。あらゆる「善」は、与えられたコミュニティの価値体系との関係で必然的に定義されるため、公共財は共有された道徳的条件に依存します。これらのことを考慮し、我々は他者への貢献と文明の長寿のために「公共財」の定義を強化することを提唱しています。
世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに坐っている人びとの真中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人びとの真中にあるということを意味する。- ハンナ・アーレント、1958年
公共的なものは、天然資源であれ人間が作り出したものであれ、私たちが互いに出会う世界に満ちています。私たちは社会としてそれらを管理し、共有し、維持しています。建設や管理の方法は不完全ですが、これらは、対話、議論、共通の関心事において私たちを引き寄せます(Honig、2017年)。自然景観や建築環境は、単なるモノ以上に文化的な接点となっています。それらは、公共財のケアに私たちを関与させます。
経済学において、「公共財」とは、非排除性かつ非競合性、つまり、人々のアクセスを妨げることができず、ある人の利用が他の人の利用を低下させることがないものを指します。きれいな空気は自然発生的な公共財である一方で、電力網は人間が作り出した公共財です。では、今日の産業知識社会における公共財とは何でしょうか?何百万もの企業や独立した開発者を支えているオープンソースコードは、しばしばこのように考えられています。サイファーパンクスは、プライバシーそのものを一種の公共財と考えました。オンラインメディアアーカイブやオープンでデジタルなインフラストラクチャも同様であるべきだと考えるのは当然のことでしょう。
最近では、Vitalik Buterinをはじめとする暗号通貨コミュニティが、公共財としてのブロックチェーン・メカニズムというレトリックを掲げています。確かに、クリプトプロトコルは最も魅力的で斬新な制度的な形態の一つです。そのユニークな機能は、無制限のメンバーシップと参加、オープンAPI、リソースとパワーの透明な配分といった、「公共」の性質に由来するものです。しかし同時に、その特性の多くは、誰でもアクセスすることができるという主張と矛盾しています。所有権が少数のクジラに集中している場合、クリプトプロトコルは公共財と言えるのでしょうか?口では、これらの市場プリミティブは「公共インフラ」と表現されることがありますが、ブロックチェーンが「公共性」に役立つのならば、分散型金融はその一つの形と言えるでしょう。基本的に、これらのトークンホルダーが共有する関心事はただ一つ、「価格」です。
クリプトプロトコルは経済学的な意味において公共財と言えるかもしれませんが、このような議論の中で、何が公共にとって良いことなのかについてどこで議論されているのでしょうか?クリプトコミュニティが掲げる野望には、大規模なコーディネーションの問題を解決し、ポスト国家的な主権形態を構築し、グローバルな競争の場をフラットにすることがあります。しかし、壮大で平等主義的な社会を作るには、経済学だけで想像できるものよりも、もっと広範な公共財のビジョンが必要です。
ローマ人の公衆浴場は、貧富の差に関係なく利用でき、街の公衆衛生と豊かな文化的生活の礎となっていました。アレクサンドリア図書館は、最盛期には数十万冊のテキストを所蔵し、古代世界最大の公衆知識の宝庫でした。多くの点で排他的でしたが、これらの驚異は今日我々が知っている公共財の先駆けでした。それらは開放性と普遍性の理想を指し示しているのです。新しいデジタル社会の構築者として、我々は「公共」と「善」が意味するものについて、より包括的で先見性のある概念を備えなければなりません。プロトコルトレジャリーが公共事業のコミュニティスチュワードシップに移行している中、クリプトプロトコルがどのように公共財を独自の概念で表現するかを想像する時が来たのです。
私たちが公共財を新しく理解することは、公共という概念を探求することから始まります。どんなことによって何を公共的なものにしますか?何が公共を構成しますか?
俗に言う「公共」とは、公園、道路、共有地など、自由に利用できる人々のものであると理解されています。クリプトプロトコルの公共性に対する最も強い主張は、オープンかつパーミッションレスなアクセスという原則に基づいています。ブロックチェーンは、Web1やWeb2の公共性の重大な制約を克服します。その制約とは、不可侵のアクセスという基準を満たすことができないという点です。インターネットのいわゆる「公共空間」は、街の公園のようなものではありません。それらは単に他人のプライベートサーバーであり、アクセスは自由に取り消すことができます。対照的に、クリプトプロトコルは意図的にスムーズなアクセスを可能にしています。
しかし、公共とは公共空間へのアクセス手段以上のものです。もう一つの重要な定義は、何らかの政治的な関連性に基づいて定義された人々の集合体としての公共です。17世紀のイギリスでは、新たに検閲のない報道機関がサロンの集まりのメモや批評誌などの世論を伝える記事を流通させました。よく国家を非難するこれらの出版メディアによって、初めて「私的な人々が公として集まる」ことをもたらしました(Habermas、1989年)。それから一世紀も経たないうちに、フランス革命家は祭典を催し、記念碑を建て、新しい共同空間を指定することによって、新しい民衆としての自意識を形成しました(Ozouf、1975年)。どちらの場合も、政治的組織は新たな語りの場を設けることで機関としての地位を高めました。その語り場で、人々は自分たちが集団全体、すなわち公共の一部であることを認識し始めるでしょう。
自己意識的な存在としての公共という概念は、インターネット上でも定着しており、メディアの出版と流通によってアダプションが促進されます。ウェブ文書やソフトウェア・アプリケーションを公開することは、何かを公にする以上の行為です(Warner、2002年)。暗号通貨の支持者は、トークン所有者を「コミュニティ」と呼んだり、プロトコルのことを国民を抱える国家に例えたりする際に、しばしばこの考えを用います。ブロックチェーンで作られたソブリンマネーは確かに主権国家と比較することができますし、その不変性はAPIが多くの合意なしに変更されたり取り消されたりすることがないことを意味しています。
これらの考え方は、クリプトプロトコルの概念を公共財と見なすための材料となりますが、両者を合わせると、複雑な図式が浮かび上がってきます。その「オープン」な性質にもかかわらず、クリプトプロトコルは自らが扱う公共の範囲についてまだ十分な回答を提供していません。
今日のクリプトエコシステムでは、トークンベースのメンバーシップが、リソース配分、オンチェーンにおけるインセンティブ、オフチェーンの意思決定などの重要な検討事項を決定しています。ブロックチェーンの検閲耐性は、ゲートキーパーの世界に対する解決策のように見えるかもしれませんが、実際にはpay-to-playは別の方法でアクセスを制限します。プロトコルは何千、何百万ものステークホルダーによって所有されているかもしれませんが、すべての人の利益にはならず、参加するための時間、専門知識、リソースを持っている人だけが利益を得ることができます。
では、公共をユーザーの集合として定義することの意味は何でしょうか?Web2のプラットフォームは、私たちに重要な教訓を与えます。今日のウェブを席巻しているソーシャルメディアプラットフォームは、参加を選択したユーザーの「コミュニティ」のために作られたツールであると主張していますが、これらのプラットフォームは、コストを負担することに同意しなかった第三者への影響という広範囲に及ぶ負の外部性を生み出してきました。そのプラットフォームの外部性には、個人のプライバシーの侵害、誤った情報の拡散、創造的労働の切り下げ、さらには民主的プロセスの不安定化などが含まれます。これらの影響は、現在Web3で活動する人々が、公的な説明責任がベースとなった主権的な空間を確立しようとする主な動機としてしばしば引用されます。
ソーシャルプラットフォームは誤認された公共の一例ですが、新生Web3の「公共空間」は定義、範囲、表現という同様の問題に悩まされています。クリプトにおける利害関係と発言力の等価性は、政治的な代表者が財産所有権を条件としていた初期のアメリカ民主主義を彷彿とさせるものです。この体制下では、アメリカの全人口のわずか6%しか投票権を持っていませんでしたが、これは今日の基準からすれば、笑ってしまうほど政治母体は排他的な考えを持っていました(Ratcliffe、2013年)。私たちが今日享受している普通選挙、人権、公共サービスなどは、指定された公共から排除された人々が、自分たちの声を代弁してもらうために闘った成果であることを想起してください。実際、「カウンターパブリックス」の理論は、とりわけより大きな公共圏の中に認められない集団、その構成員が人とみなされない可能性のある集団を扱っています(Warner、2002年)。
公共財の意味を理解するためには、公共性の範囲を定義することが重要であることは明らかです。公共の一員であることを通貨の所有と同一視することで、重要なステークホルダーや協調体制の構築の機会を見失ってしまいます。今日、クリプトにおける公共の最も重要なメンバーは、最も多くのトークンを保有する人たちです。つまり、少額ホルダーであっても、彼らの利益になることについての会話から事実上排除されているのです。さらに、このクリプトにおける公共の中には、公共の利益について全く異なる概念を持つ人々も存在します。広いクリプトコミュニティを構成する代表的な存在ではない人々と関わることで、私たちは自分達が構築している公共についてより深い理解と彼らに最も適したサービスを提供する方法を得ることができます。
私たちが公共について考えるとき、拡大解釈する必要があります。これは、世界中のすべての人々を私たちの公共の一部と考えなければならないということではありません。スクワッドに関するエッセイで強調したように、私たちは小規模で自己選択的なコミュニティや信頼に基づく集団を賞賛します。しかし、非保有者、技術に精通していない仲間、あるいは単に公有への未来の参加者などといった中心的ではないグループに与える可能性がある効果(プラスとマイナス)を考慮することで、より大きな公共のアップサイドの可能性を高め、負の外部性のリスクを減らします。
簡単に言えば、クリプトコミュニティが構築しようとしている偉大なポスト国家社会には誰が属しているのかということです。Michael Warnerの言葉を借りれば、公共とは常に自分の既知のプロトコルを超えるものです。それは、見知らぬ者同士の歴史的に偶発的で、文化的に複雑な関係です。公共とは、一度も会ったことのない友人たちによって構成され、その友人たちと知らず知らずのうちに文化的な価値観を共有しています。私たちが作るものは、どのようにして多くの人に利益をもたらすのでしょうか?
この問題を解決するために、公共財の「善」に目を向けてみましょう。
では、何をもって公益としますか?これまで私たちは、公共とは一体誰なのかを問うことから始めてきました。しかし、仮に公共=トークンホルダーという主張に従ったとしても、公共について私たちに一体何を伝えますか?トークンホルダーとは誰のことですか?彼らは集団としてどのような信念を持っていますか?
古典的な公共財である公共公園を考えてみましょう。公園を訪れる人は一般的にこの公共空間の「利用者」であると言えるかもしれないし、車で行ける距離の人は誰でも十分なサービスを受けられると言えるかもしれません。しかし、この分類は明らかに満足のいくものではありません。「利用者」は、保護された森林や海岸線への自由なアクセスを重視する人々の詳細を把握することはできません。なぜ公共公園が公共駐車場よりも望ましいのですか?このことは、公共財の定義には、何が公共の利益となり、そしてその理由についての共通理解を前提に考えるという重要な認識を私たちにもたらします。
利用するものだけでなく、地理、民族、宗教、趣味、文化、歴史、価値観などの多くの共有された特徴によって社会団体が一体化されています。だから、公共財は普遍的であっても、常にローカルな存在なのです。ローカルとは、空間や時間、もしくは経験を共有することによって生まれ、感じられるものです。この共有された文脈から発展する仮説や規範がなければ、公共の利益となるものを特定したり、そのためのスペースを確保したりすることは不可能でしょう。つまり、経済学者が定義するような公共財でさえも、常にある集団が共有する文脈、共通の信念、道徳的感性、つまり、その価値体系を反映したものです。
公共図書館、公教育、国家的な芸術品、清潔な水道水は、公共財の道徳的基礎を例証する4つの公共物です。公共図書館は、自主的な学習と知識の共有の場を重視するコミュニティによって作られます。公立学校は、数学、科学、言語、歴史という共有された基礎が市民生活を豊かにすると考える文化圏で評価されます。国家が歴史的な芸術品を指定し、保護するのは、その国の人々が遺産との繋がりを本質的な価値と考えるからです。最後に、私たちがすべての人にきれいな水を提供するのは、すべての生命は等しく価値があるという信念があるからです。このヒューマニズムの価値観があるからこそ、基本的なインフラの不備であるフリントの水道危機のような話が、人道的危機として広く理解されるのです。つまり、ある種が無価値なものとして扱われたり、まるで自分の居場所がないかのように扱われたりするということです。
これらの例はそれぞれ、何が人生を有意義なものにするかという様々な考え、つまり、何が「良い」ものであるかという考えに基づいています(Taylor、1977年)。公共財は排他的ではなく、競合しないものであるが、より重要なことは共有された価値を満たすものであるということです。
前述した4つの公共財は、社会全体にとって価値があるという共通の信念を持った社会団体によって維持されます。しかし、クリプト界で資金提供されている「公共財」を見て、自分たちの価値観が反映されていると感じる人がどれだけいるのでしょうか?UNIホルダーやEthereanの共有する価値観とは何でしょうか?
クリプトコミュニティは表向きは自由主義の精神を持っており、「分散化」はコミュニティの自己主権を意味することが多いです。この状況で富の創造を考えると、クリプトが異なるコミュニティの多様な価値観に対応した財を構築すべきではない理由はありません。「クリプトによってコミュニティは価値をお金にエンコードできる」という人気のミームがあるくらいです。しかし、実際には、異なる価値観が議論されたり、実現されたりする場はほとんど形成されていません。そのため、共通の価値観を実現する方法がない場合、私たちは最小公倍数である「利益」をデフォルトとするのです。
どのような良いものを目指して構築していくのかという具体的なアイデアがないので、大口トークンホルダーの金銭的利益はプロトコルのガバナンスに過剰に反映されてしまっています。これは中央集権化のリスクになると私たちは考えています。プロトコル政治家は自分たち以外の利益を代表する権限や正式な責任を持たない場合、結果的に均質で利己的なクジラ集団がネットワークにとって有益と思われることを決定することができるようになるのです。クリプトには、まだ「公務員」という概念がないのです。
では、寡占的なプロトコルの意志決定に代わるものは何でしょうか?GitcoinのQuadratic Fundingのメカニズムの基礎となったButerin、Hitzig、Weylによる「リベラル・ラディカリズム」という概念は、公共財が市場シグナルと同等であるというモデルを提案しています(Buterin et al. 2018)。 このモデルに対して、価値観が「値踏みされる」という議論をすることもできるでしょう。人々が「ドルで自分の価値観に投票する」のであれば、価値観が明示されているかどうかに関わらず、市場はその価値観に資金を供給する手段として振る舞います。実際、Quadratic Votingは情熱的な少数派の発言力を相対的に高めることができるように見えます。
しかし、投票は象徴的に強力ではありますが、このモデルは重要な真実を見逃しています。つまり、私たちは個人的に開示した好みを通じて共有された価値観を発見することはありません。もし、公共財が共有された価値観を満たすものであるならば、何が価値あるものであるかについての公的な議論が重要です!多くのプロトコルはすでにガバナンスに関してこの教訓を学んでいます。議論と合意形成は投票の前段階として必要なのです。同様に、価値観についての議論は、投票行為そのものと同じくらい、あるいはそれ以上に重要です。価値体系は、公の場で語られ、交渉されることによって育まれます。
何が価値あるものかについてウォレットの中のトークンの数が多い人たちが集権的に決定することを望まないのであれば、多様なコミュニティに力を与え、異なる価値の概念を明示的に取り入れる必要があります。私たち自身の価値観と一致した経済を実現するためには、私たちが考える公共の利益とそのためにどのように意思決定が行われるかをより強く結びつける必要があります。長続きする文化を築きたいのであれば、メンバーは「トークンホルダー」という次元を超えて、互いに共感し合わなければなりません。クリプト界のメンバーはニューヨーク人、ベルリン人、キンシャサ人であり、私たちは高齢者の孫であり、若者の親です。私たちは多くの公共のメンバーであり、公共財の創造に自分たちの全人格的な視点を持ち込まなければならないのです。
これまで私たちは、公共というものの定義が複雑であることを学び、公共という概念を多くの関係者に広げることで、より良い公的な結果が得られる可能性があることを示唆しました。また、公共財はある地域で共有された価値観に基づくものであることも分かってきました。これらの概念から、私たちはより良い公共財の定義を構築することができるでしょうか?
私たちが必要とする公共財の種類はデジタルコミュニティによって実現されるものであり、同時にWeb2プラットフォームの破壊的なスケーリング効果を回避するものです。Facebookはそのリーチを拡大するにつれて、民主的な制度に対するプロパガンダ的な攻撃という形で、ますます負の外部性を実現するようになりました。Web3コミュニティによって実現される公共財は、正反対の効果を生むように努力しなければなりません。規模が大きくなればなるほど、より幅広い人々によって評価され、より良いものになるはずです。これが、正の外部性の創造です。
これは公共財を定義する新しい強力な方法です。実際、クリプトはすでに強力な例を生み出しています。非対称暗号を一般的に取り入れたことです。コンピュータ科学者や暗号学者は、公開鍵暗号の大量導入により、多くの人が価値があると抱いているプライバシーの権利を強化する可能性があることを何年も前から知っていました。しかし、研究者たちがこの技術の採用を訴えるのに苦労している間に、暗号通貨は数年のうちにアダプションを推進するようになりました。暗号化メッセージは、ダークマーケットや諜報機関が使用するツールから、消費者向けアプリケーションやサービスに強く求められる機能へと変貌を遂げました。
クリプトの正の外部性の他の例はより初期段階にあります。今日、産業全体がソフトウェアで構築されているにもかかわらず、オープンソースプロジェクトのコアコントリビューターはまだ資金が不足しています。GitcoinやRadicleのようなプロジェクトが提供するインフラによって、プロトコルのトレジャリーはクリプト内外でオープンソースコードの資金調達を劇的に拡大する態勢を整えています。クリプト内外で民間および公的な資金がますますオープンソース開発の支援に向けられるように、私たちはすでにこの変化の兆しを見ています。
同様に、オープンな組織のAPIの正常化と市民参加は自由主義と民主主義の現代の支持者にとって公共の利益の目的となります。オープンで、変更不可能で、パブリックに管理されたAPIは、中央集権的な組織の力を劇的に抑制し、ユーザーに代理権を与え、そのユーザーは自分自身のインターフェースやサービスを決定することができるようになるのです。ブロックチェーンがAPIをオープンで取り消し不能なものにするように中央集権的な企業や政府に対して圧力をかければ、アクセス可能で説明責任のある組織への大きなパラダイムシフトとなるでしょう。最後に、クリプトプロトコルは、日常生活の一部として、公共システムの参加型ガバナンスを再導入します。クリプトの外部性の一つとして、ローカルなガバナンスにおける透明で使い勝手の良い参加への期待を高めることを願うばかりです。
これらの公共財は、実際のものも潜在的なものも、どちらも還元的な経済観念を超えた財です。それらは、プライバシー、自由に共有された仕事の美徳、自由主義、説明責任、民主的な参加などの価値を満たし、今日のWeb3のユーザーをはるかに超えた関係者にとっての共有された良識を組み込んでいます。
このことは、新しい定義が持つ有用な特徴を示しています。公共財を正の外部性として理解することで、一般的に公共財の構成員として分類されない人々を受益者だとみなすことができます。この定義は経済学的言説とは対照的であり、公共財に貢献しない利用者は市場の失敗を示す「フリーライダー」と見されます。ワクチン、公共図書館、オープンソースコードなどの公共財の創造と消費を促進することが明らかに社会の利益である場合、どうしてこれらのユーザーを「フリーライダー」と考えることができるのでしょうか。正の外部性という考え方は、他者の利益を自明のものとします。実際、この性質は信頼できる中立性の原則と一致します。特権階級の「市民」は存在すべきではなく、すべての人が等しく利益を得る立場にあるべきことを公共財に適用される信頼できる中立性は示唆しています。
正の外部性は、クリプト界ではおなじみのテーマである「ポジティブサムゲーム」の重要なバリエーションです。現在では、多くのクリプトネイティブが、関係性や価値創造は主にこのタイプであり、コントリビューターが協調的に加算効果をもたらすビルディングとシリングのゲームであると認識しています。プロトコルやインフラが成長し、文化的に定着するにつれて、正の外部性の範囲も比例して拡大するはずです。
興味深いケーススタディとして、Fair Launch Capitalがあります。このプロジェクトは、明確に公益的な使命を打ち出しているわけではありませんが、さらなる探求をする価値がある社会モデルの可能性を示唆しています。つまり、Fair Launch Capitalは有望なプロジェクトに資金を提供する少人数のファシリテーター・グループです。これらのプロジェクトの創設者は、創設者に対するトークンの割り当てを放棄しようとして、代わりにスタートアップ助成金と引き換えに「公正な」トークンの分配を行おうとしなければなりません。もし創設者がこのプロトコルを展開する過程で何らかのアップサイドを得た場合、彼らはプロトコルを立ち上げ、同じようにトークンを配布しようとする後続のチームに補助金を支給し、「恩送り」をすることが期待されています。
Fair Launchモデルが興味深い理由は数点あります。第一に、ファシリテーター・グループは金銭的価値を直接的に獲得するのではなく、組織を永続させるために存在しているという点です。第二に、Fair Launch Capitalはハードなインフラではなく、社会的なプロトコルであり、献身性と価値感の一致によって維持される機関です。そして、第三に、利益を得る人々は、サービスを行う人々とは異なるということです。このことは、公共財の新しい形の意外な特徴へと繋がります。正の外部性を発現する方法は、他人の成功を自分の成功と見なすことです。
このような正の外部性という考え方に基づいて、私たちはどのような公共財をどのように構築できるのでしょうか?もし、公共財が常にユーザーベースに対して局所的な価値観を提供するものであるならば、私たちはすでに自分たちが属している公共に注目することで、最高のインスピレーションを得ることができるかもしれません。オンチェーンアイデンティティであることに加えて、このエッセイの著者である私たちは、ベルリンとニューヨークから執筆しています。これらの地域の市民として、私たちは公園やきれいな空気、衛生設備、公共交通機関の恩恵を受けていますし、過剰な取り締まりや森林破壊、ワクチンの遅い配備に憤慨しています。私たちの友人には、公的な芸術資金を受け、権利を奪われた学生を教育できるように助成金を申請している者がいます。
このようなローカルな場に参加することで、私たちは同じニーズや願望、懸念を持つ人々と繋がることができます。私たちはより多くの緑地、質が高く低コストの住宅、そして健康的な農作物へのより良いアクセスからあらゆる恩恵を受けるでしょう。クリプトの公共財の資金提供者や開発者は、これらの分野に介入することができるでしょうか?クリプトは国家の外に存在するインフラを構築することに成功しましたが、私たちはまだリアルな土地、コミュニティ、国家に囲まれた生活を送っています。何十億人もの人々を代表する真にグローバルなDAOのビジョンはファンタジーです。しかし、もし私たちが住んでいる地域の未来の市民を含めるために「正の外部性」の原則を適用するならば、プロトコルによって構築された公共財は、コミュニティ主導の産業政策のように見え始めます。
これは、ローカルの小規模スタートアップ立ち上げのための補助金であるFair Launch Capitalのように見えるかもしれません。あるいは、Uniswapのトークンホルダーが、保全型土地信託を設立するための土地取得を任務とする地域分科会に資金を提供するために投票することです。Web3の最も破壊的な可能性の一つは、強力な収益メカニズムを持つエンティティを取り込み、それ自身よりも大きな何かに対処するためにレバレッジをかける力です。DAOは公共財を構築するために州政府の外で活動しながら、過去の偉大な社会運動の伝統に従うことができます。ブラックパンサー党が全国的に行った公立学校の生徒(黒人も白人も)に無料の朝食を配るプログラムの成功は、州独自のバージョンを作るようにアメリカ中の州政府に対して圧力をかけました。これは地域コミュニティに関心を持つ非国家的なグループは、どのようにして拡大した公共に貢献して、正の外部性をもたらすことができるかを示す例となります。
これは地域的に有効なモデルでありながら、世界的な公共に向けてスケールアップするものです。参政権の拡大と同様に、隣接するコミュニティや文化に対して強力な前例となります。自分たちの住む地域に根ざした問題に取り組み、他の地域に向けて社会モデルを確立することで、真の意味でグローバルな公共財を生み出す触媒となることができるのです。
Ethereumのプロジェクトは、世界の繁栄のためのコーディネーションシステムである「ワールドコンピュータ」を想定していました。他の何千人もの人々と共に、私たちは2016年と2017年に社会をより良く再構築しようという野心を持ってクリプト界に参加しました。今、私たちのほとんどはポートフォリオの残高を確認することに終始しています。私たちはその核となる信念を見失ってしまったのでしょうか?
私たち一人一人は過去の社会の公共財の受益者です。これらの壮大なプロジェクトは、私たちを謙虚にさせます。大聖堂、大運河、衛生設備、一般識字率の向上などによって、公共財の「良さ」は生涯という観点で測られることを知ることができます。これらの偉大な業績に匹敵するためには、私たちは時間軸を延長しなければなりません。私たちは、トークンホルダーやプロトコル参加者のためだけでなく、これらのインフラと同じように広がっている世界のためにポジティブな結果を保証したいと考えています。文明の長寿の基盤を作り、私たちより長持ちするものを作るために、クリプトプロトコルがもたらす不変性をどのように利用できるでしょうか?
これに答えるために、今日におけるこの定義を満たす公共財を考えてみる必要があります。例えば、恒久的な土地保護区、世界種子貯蔵庫、グローバル時代の基礎となる通信技術としてのインターネットそのものがあります。これらは単なる公共財であるだけではなく、そのような財を何世代にもわたって維持するための文化的慣習です。公共財は、公共の利益のために行動パターンを再生産する社会的な機関によって実現されます。
クリプトプロトコルは、今日のネットワーク文化に挑戦するために必要な社会的な機関の構成要素を提供します。すでにその多くが10億ドルもの資金を使うための野心的でインパクトのある方法を模索しています。そして、これらのクリプトエコノミクスのシステムを通して金銭的価値以上のものが流れています。人々の時間、注意、エネルギーは、管理することができる資源です。しかし、今日においてクリプトで構築されているものの多くは、自己言及的で自己中心的なマネーゲームです。「ETH=お金」「トレジャリーの多様化」「ngmi」ミームなどは基本的に利益を指標とする概念です。しかし、お金は何のためにあるのでしょうか?アメリカドルは保有者に利益を与える責任はありません。暗号通貨は金融商品であり、ビジネスではありません。
トークンホルダーとして、私たちはこれらの資産を何に使うべきかを問う権利と責任があり、そのステークは高いです。20世紀の社会の形は、利益のみを追求する企業によって決定されました。次世代のプロトコルベースの機関は、同じ結果をもたらすことを望んでいるのでしょうか?必要な社会的な機関は、オンチェーン企業ではなく、資本とコーディネーションが意図するものとは全く異なる考え方を持った機関です。私たちは、今日のプロトコルのグラントを与える母体にこの可能性を見い出し、目指している公共目標を持つより小さなグループにトレジャリー資金に対する責任を分配しています。この原則に従って運営されるプロトコル全体の力を想像してください。私たちの野心の範囲は、良心的なトークン投票をはるかに超えています。私たちが望むのは、コミュニティ全体が公共の関心事の再定義に参加することにほかならないのです。私たちの前にあるチャンスは、どのプロトコルよりも大きいのです。今日の世界では、資本が不足しているわけではなく、公共の利益のための野心的なビジョンが不足しているのです。
いつものように、私たちの考えを導いてくれたOther Internetのピアレビューの皆さんに深く感謝しています。特に、Bryan Lehrer、Kei Kreutler、Callil Capuozzo、Jay Springett、そしてArthur Roing Baerには、私たちの考えを後押ししてくれたことに感謝しています。また、私たちの議論を明確にしてくれたDena YagoとCarson Salter、そして歴史的な記述を豊かにしてくれたKlara Kofenにも感謝します。また、Maria Gomez、Jerry Brito、Chris Burniskeには、このテーマについて1年以上にわたって啓発的な会話を交わしていただき、ありがとうございました。そして最後に、Scott MooreとKevin Owocki、そしてGitcoinのチーム全員に感謝します。彼らの公益に対するコミットメントは、私たちにインスピレーションを与え続けてくれます。
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