絆についての考察

界隈で絆銘柄という単語を聞いた。どちらかというと物事を揶揄する意図をはらんだ単語である。

事情を知った時、素晴らしい命名だな。と感じた。

日本人は絆が好きだ。美徳として、お金より人と人とのつながりを重んじる。

否、本当はみんなお金が大事だが、同調圧力と共にそれのほうが重要だと言わざるを得なくなってしまう、という問題が日本人には度々起こる。

具体名を出さないと始まらないので具体名を出すが、この話題はCNP(Crypto Ninja Pertners)とその周辺のNFT界隈の話題である。

絆銘柄とは

CNP含むいくつかの銘柄は絆銘柄と呼ばれている。

絆という概念が名前になった理由は、「ガチホこそが正義」「売ってはいけないという雰囲気」という独特なルールが存在するからだ。

これについて、日々ツイッターでは論争(時折炎上)が起こっている。

この記事は、絆銘柄論争の論点と、その原因、双方の思想をそれぞれ考察するためのものである。

TL; DR

1.CNPの発端であるイケハヤ氏の作りたいものは、「値段よりもそのNFTのユーティリティ(そのNFTによってもたらされる経験等)を価値として重んじる」という文化圏だと考察する

2.論点の中心は「中央集権か否か」ではなく、「Cryptoの根幹の思想と違っていないか」という論争。

3.この論争はNFTに金融商品の面があるからこそ起きている論争であって、CNPがNFTでなければ問題はなかった。

4.この「ガチホこそが正義」「売ってはいけないという雰囲気」を否定することはできない。

実態とデータ

イケハヤ氏は彼のVoicyで、以下のように話している。

以下抜粋、内容は変えず文体に変換しています。

「NFTを売るのは自由ですよ、僕も売ることはある。」

「売るってのは自分の利益のためにコミュニティに迷惑をかけるのと同じだよね。」

「それをごまかして生きていかないといけないよね。」

「ブロックチェーン見たら売ったかどうかはわかる。僕は結構そういうの見てる。」

「要するにお金、お金というか価値。それをどういう風に扱っているかがわかる。」

「自分が手にした価値は、自分が作り出した価値ではなく、みんなが作り出している価値だよね。」

「価値を上げているのはコミュニティや運営の努力だよね、それを無碍にするのはマナーがないよね。」

「まあ必要ならば全然売ってもらってもんだいはないけど、売るのは自由です。」

最初に聞いた時は少々矛盾しているのではないかと思ったが、このようにも話している。

「僕はNFTはドライなもので、株やFXのようにトレードして増やすものだという思想ではない。」

「過去関わってきた人、或いは今見守ってくれてる人たちに対して敬意を表する。これがNFTの面白いところだと思う。」

「そういう人間的な部分が経済的な部分と紐づいている。ここがおもしろい。」

「普通に買ってすぐ売るとかメルカリで転売されるのと同じで作者や運営は嫌だと思う。これは理解してほしい。わかると思うけど。」

さて、上のVoicyをまとめると以下のような思想となる。

1.NFTは値段を見てトレードするものではなく、もっとコミュニティ的な価値を重んじるべきである。
2.売ってもいいが、利益だけ見て売るのは運営やコミュニティが価値を高めてくれている事実に対して、リスペクトがないと判断されてもしょうがない。

つまり、通常の商品と同じく、転売(この場合は利確と同義)を行うことは理性的に非推奨であるということだ。

この「お互いに売りあわない」という状態を絆と表現し、この場外ルール(クリプトにおいて場内のルールはスマートコントラクトだけである)が適用されるCNP、LLAC、PanDAO等が絆銘柄とされている。

さて、この時私が考えたことを有名なフレーズで一言で言うと、

”Why NFT?”

だった。
恐らく読んでいる諸兄もいくらか感じただろう。

CNPシリーズ等のNFTは、実質的にコミュニティへの参加権を表している。平たく言えば会員証だ。これはNFTのユースケースとして、典型的な使用法といえる。

この類のNFTは、基本的に転売行為を是としてきているが、CNPはFounderがこれを明確に否定している点で文化的に斬新ともいえる。

そもそもNFTは、二次流通市場において作者に問題なくFeeが入る、購入と売買の追跡ができるのでその管理がしやすい、といったことが初期に有用性としてあがっていた。

それを完全に否定している(そうでなくともそう聞こえる)ので、個人的な意見だが、何故NFTをベースとしてこのコミュニティを作り上げたのか、矛盾を感じざるを得ない。

この条件であれば確実に普通のオンラインサロンとして運営したほうが、この論争は起きなかった。

発足当時はNFTやメタバースが最もバズワードとして話題になっていた時期だったので、その話題性に乗せるため、つまりマーケとしてだろうかという推測ができるが、これは定かではない。

賛否とその論点

何が問題で炎上するかは火を見るより明らかだが、しばしば表層だけを見て芯をずらしたまま叩く意見が散見される。

顕著なのは”中央集権”論だ。

「イケハヤ氏本人が上の理論を展開し、他のホルダーのNFTの扱い方を明確に限定している。」という理論である。

が、反論できるような点はいくつかある。

まず、イケハヤ氏はリーダーではない。体としてはDAOであり、イケハヤ氏本人がすべてを操作してはいない。(しかし、実効的にカリスマとしてトップにイケハヤ氏が君臨しているといえる、コミュニティ内外問わずこれは同意意見が多数ある)

そして、限定してはいない。売ってもいい。(しかし、リスペクトはないらしい)

なんにせよ、この問題の本質的な論点はそこではない。本題に入ろう。

この問題の論点は、「絆銘柄の思想がCryptoの根幹の思想と違っていないか」というものである。

Cryptoの根幹を思い出す

最初の暗号通貨はビットコインだ。クリプトの思想はこのビットコインを紐解くことで知ることができる。

サトシ・ナカモトは、CypherPunkという思想に賛同していた。彼がビットコインの論文を発表した場所も、最初はこの思想の人々が集うメーリングリストだった。

CypherPunk宣言には、このような文章がある。

We cannot expect governments, corporations, or other large, faceless organizations to grant us privacy out of their beneficence.

ー 政府、企業、その他の顔の見えぬ大きな組織が、その恩恵として私たちにプライバシーを与えてくれることを期待することはできません。

Cypherpunks write code.
We know that someone has to write software to defend privacy, and since we can't get privacy unless we all do, we're going to write it.

ー サイファーパンクスはコードを書きます。
ー そして、わたしたち全員がそうしなければプライバシーを得ることはできないので、それを書こうとしているのです。

つまり、大いなる組織、ここでいう国や大企業(よくGAFAMが引合いに出されている)からプライバシーを守るため、プログラムのコードを書き、ソフトウェアを広め動かすことで中央なくしてこれを達成する。というものだ。

これから発展して、Cryptoの世界ではこの志向を示す重要な標語がある。

”Don’t trust, Verify.”

ー 信用ではなく、検証しろ。

コードを見て、論理でそのプロトコルを理解しろ。相手を信用してはいけない、必ず問題ないということを自ら検証しろ。ということである。

つまり根拠なく物事を信じるなということであり、常にこの標語はクリプトでは重んじられている。

さて、このCypherPunkの思想と、イケハヤ氏の先の思想とその運営方法が、かなり乖離している、というのが本件の本質的な論点である。

少し説明しよう。

CypherPunkのこの思想は、裏を返せば、**「コードで構成されていない部分はどうしようと縛ることはできない」**というものでもある。

彼等の思想はインターネット上のソフトウェアを通じて形作られるネットワーク効果を前提とするものであり、これはプロトコル、つまりプログラムコードをもととしてルールを作っていくものだ。

Code is Law. と言われるように、コードが法であり、コード以外でユーザーを縛るものがないのである。

NFTにおいていえば、これはスマートコントラクトがどのように書かれているか、ブロックチェーンがどのような仕組みか、とかそういったものだ。

仕組み上売りに出せるのであれば、常に売りに出してよいのである。

この思想において、「売ってはいけない」「経験やユーティリティ、歴史にこそ価値がある」という主張は、どうあがいても相性が悪い。

イケハヤ氏のプロジェクトにおいては、むしろそのようなルールは事実上存在せず、売ってはいけないという雰囲気だけがある状態であり、それが実効的に意味を持って、売りたくても売れない人が生まれてしまっている。

この実態は、クリプトネイティブな思想を持つ人々から見たら、「それは違うだろ」という反対意見がおこることは容易に想像できる。

思考法と付き合い方

しかし、根幹の思想と違うからといってこれを頭ごなしに否定する必要はないと筆者は考えている。

先に言ったとうり、コード以外に法はないのだが、考え方として、

別にルールをコードの外で作っても良いが、ただしそれは完全には機能しない、ということでもあるのだ。

つまるところ、別に勝手にやればよいのである。

売らないことは一種の美徳であるいう選択肢を与えるのも、自由ではある。Founder本人がその文化圏にその思想を広めたい、それが彼の根幹のプロダクト思想であればそれでよいと思う。

そして、そのプロダクトのユーザーがこれを気にするもしないも自由なのである。賛同するしないに関わらず、それは仕組み上好きに売れるので売ってしまって構わないのである。

私はこの絆銘柄の文化を、一種の日本人的特性が生んだ副次的かつ自然な現象だと考えている。

イケハヤ氏自身が”村”と表現したように、そのコミュニティにはそのコミュニティ特有のしきたりがある。

居たい人は残り、そうでなければ去ればよい話ではないだろうか。

あとがき

売ってしまうと村八分にされるから売れないという方がいたら、それについてはあまり心配しなくていいと考えている。

実際は、絆銘柄の文化圏は実際のクリプトの文化圏のごく小さな一部分でしかない。マジでごく小さな一部。クリプトの世界のうちのNFT文化圏はその2~3割くらいだろうが、日本でしか発達していないこの絆文化圏はその1000分の1ほどの規模しかない。言ってしまえば文字どうり村レベルである。

そこから村八分されたと言って、何をくよくよする理由があるのだろうか。まだまだクソ面白いクリプトの世界は広く、情報とコンテンツはどんどん増えていっている。次の趣味を探しに行けばよいのではないだろうか。

むしろその村の中ですべてを終えるには、情熱をかけられるあなたがたはあまりにも惜しい。

また広い世界を探しに行けばよいのだ。あなたがNFTを最初に見つけたときのように。

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