新潮社の「天皇」といわれ、『週刊新潮』『芸術新潮』『フォーカス』『新潮45』を創刊し、雑誌ジャーナリズムの礎を築いた齋藤十一。文学など教養的な文芸作品から、スキャンダルを書く写真誌という俗物的なものまで手掛けることからも、人間的な幅が広い。
正確な物言いに諸説あるとされるが、写真誌「フォーカス」を作ったときに「おまえら、人殺しの面を見たくないのか」といった強烈な言葉を放っていることからも俗を捉える力を感じる。
また畏怖されるのは、太宰治や坂口安吾を発掘し、山崎豊子や松本清張などの大物作家に容赦なくダメ出しをしながら数々の作家を生み出した上、文学にとどまらず岡本太郎の発掘、ビートたけしの文化人としての側面を見出したりなど、多ジャンルにわたる数多の才能を捉える凄まじい目利きぶりを発揮したこと。そこに関心を持ち読んだ。
以下、メモ
新潮社の創業者の孫の家庭教師をきっかけに新潮入り。
理系の早大生がたまたま同級生の文学青年に感化され、大学を放り出して本をむさぼり読むようになる。
そこで新潮社の創業社長が文学や哲学に傾倒し始めていた大学生を見込んだ。 「うちの孫の勉強を見てもらえないかな」
(中略)創業者のひと言で家庭教師のアルバイトを引き受け、一年後の一九三五年九月、義亮に薦められるまま、大学を中退して新潮社に入ったと伝えられる。
最初の仕事は倉庫の管理で、そこで翻訳文学を読破した。
「実は齋藤さんが着任した最初の仕事は、倉庫の管理だったんだよ。今のラカグがあるところだな。**倉庫係として一日中、あそこにいたらしい。それで暇だったもんだから、世界文学全集を全部読んだんだそうだ。**アメリカ文学はあまり読んでないって言ってたけど、トルストイやドストエフスキー、モーパッサンやポーなど、新潮社が創業して以来、得意としてきた翻訳文学を読破していったんだ。齋藤さんに教養があったのは間違いない。だけど、根っこからの文学青年だったわけではないんだよ」
戦後、「新潮」の復刊にあたり突然編集長に抜擢された齋藤氏は当惑したが、考えた結果、作家・小林秀雄を頼ることを選択する。小林秀雄は作家ではあるが、数々の文豪を送り出した編集者としての手腕も優れていた。師を選ぶセンスも抜群。
「(中略)しかし、出版人としての小林先生の手腕は鳴り響いていたから、耳に入ります。それで、新潮社とほとんど縁がなかったにもかかわらず、齋藤さんは伝統雑誌の新潮を預かるにあたり、いちばんに頼るべきはこの人だと思ったというのです。それも齋藤さんの天才的な直感がなせるところでしょう」
齋藤氏が小林秀雄のもとを訪れると、「トルストイを読め」とアドバイスを受ける。
「小林先生がトルストイを薦めたのは齋藤さんだけではなく、他にもいます。**しかし先生は、『それを本当に実行したのは齋藤さんだけだった』とおっしゃっていました。**トルストイが描く人間の業がおもしろい。齋藤さんは先生の教えどおり、とにかく必死にトルストイを読んだ。小林先生のひと言を実行し、新潮という雑誌の大本をつくった。そこから戦後の新潮が大爆発して、名作を連発していくわけです」
ここから齋藤と小林という出版界の巨人同士の長く、深い交友が始まる。小林の教えを実践して新潮の編集長になった齋藤は二十年ものあいだ、その座に君臨した。
坂口安吾と太宰治の発掘。坂口安吾も太宰治もごく一部以外にはまだ知られていない作家だった頃、齋藤が編集長になるにあたって顧問に迎え入れた河盛好蔵という人物の助言が効く。
その「坂口安吾に書かせてみたらどうか」と齋藤に薦めたのが、新潮の編集顧問を頼んだ仏文学の河盛好蔵だった。そして齋藤は河盛の助言にしたがい、「堕落論」や「白痴」を掘りだした。
そして編集長として新潮の復刊を託された齋藤は、この太宰を起用した。太宰を薦めたのは、またも河盛だった。
この人はと思った人の助言は聞き入れるのも優れた目利きの一端。
新潮の編集長というポストを得た齋藤は瞬く間に天才編集者として、斯界にその名を刻んでいった。それができたのはなぜだろうか。その編集現場には二人の相談相手がいた。一人が小林秀雄、そしてもう一人が河盛好蔵である。
「週刊新潮」でも新人の発掘をしていく。瀬戸内晴美は瀬戸内寂聴
「週刊新潮で、次に齋藤さんは新人作家の発掘に取り組んでいきました。それが柴田錬三郎や瀬戸内晴美でした。柴田錬三郎は大久保に住んでいたらしく、齋藤さんがアポイントも取らずに行ってね、とつぜん『キミ、最近の時代小説はおもしろくないって新聞に書いていたな。つまり、キミならおもしろいものを書いてくれるということか』と注文したらしい」
瀬戸内寂聴が齋藤氏が亡くなった際に読んだ弔事にも、その選択眼に言及されている。
「齋藤十一様 あなたの日本近代文学史に刻まれた御事跡の輝かしさは、今更申し上げるまでもなく、昭和の滝田樗陰と呼ばれた名編集者としてのあなたは、独特の触角で多くの才能を探りあて、その俊敏正確な選択眼に狂いはありませんでした。あなたに発掘され、自分の才能の可能性を開いた作家がどれほど多くいたことでしょう。私もあなたに鍛えられ、小説家にしてもらった一人でした」
そんな才能を発掘する齋藤の凄みは、とても小さな同人誌に寄稿しながら、文筆活動を続けていた吉村昭のもとにまで目配りしているところまで至ってる。
そんな折、新潮編集部の田邉孝治がとつぜん訪ねて来てこう言った。 「編集長の齋藤がプロモートに連載している『戦艦武蔵取材日記』を読んで、吉村さんはこれからどのようなことを書くのか、聞いてこいと命じられました」
〈私が呆気にとられたのは、発行部数千部にも足りぬ「プロモート」を斎藤氏が読んでいるということであった。私も氏が文芸の世界で神格化されている著名な編集者であることは知っていて、そのような氏が「プロモート」のような一般的には無名の小雑誌に眼を通していることが信じられぬ思いであった。
その驚きを口にすると田邊氏は、斎藤氏はあらゆる分野の印刷物を読んでいて、その精力的な眼くばりは驚異の的だ、と言った〉
芸術家の岡本太郎も発掘する。芸術新潮を創刊のころ。
事実上の編集長として齋藤が指揮を執ったのは、いうまでもない。(中略)アンドレ・マルローによる連載「東西美術論」を開始した五〇年八月号には、岡本太郎の「ピカソの顔」を掲載する。岡本を見出したのも齋藤だ。
そんな六〇年代後半、齋藤はとりわけ岡本太郎を重用した。かねて美術界の異端児扱いされていた岡本に対し、齋藤は早くからその才能を認め、芸術新潮に登場させてきた。
(中略)齋藤は芸術新潮で岡本のために大きな誌面を割いた。結果としてそれが評判を呼んだ。
当時漫才師として売り出していた会ったこともないビートたけしを登場させ、ここから文化人としての幅を広げ巨匠扱いされていく。
「最初が『衆愚とはオレのことか』で、齋藤さんはすっかりたけしに惚れこんじゃってね。『今回のお題はこれ』という感じでインタビューする。齋藤さんはそれをいたく気に入ってね。延々二十年間も書かせた。
(中略)(九一年六月刊の著作)『だから私は嫌われる』は、八十万部のベストセラーになったものね。齋藤さんはたけしと会ったこともないし、会おうともしなかった。でも、直感的に能力がわかるんだ」
新田という作家が100枚分の原稿を書いたのに、その1/5しか採用しない厳しさ。
新田次郎ほどの作家ですら、気に入るまで書き直させる。それが齋藤流だ。 「作家の名前なんかいらない。中身がおもしろければいいんだ」
齋藤は新潮社の幹部たちを前に、口癖のようにそう言い放ってきた。そんな作家に対する齋藤の接し方が、なかば社内で伝説化していった。半面それは事実でもある。
齋藤氏は作家と交わらない編集者だった。生涯を通じて触れ合ってきた作家や評論家は10人いないほどとも。
ただ、齋藤さんは、編集者は絶対に表に出ちゃいけない、黒子であるべきだという意識が強かった。それが齋藤十一というカリスマ伝説をつくった面はあると思う。そのために黒子に徹しているという意識があったような気もするんだ」
名立たる物書きがカリスマ編集者の慧眼に応えようと腰を入れて作品に取り組む。齋藤は、そのために敢えて作家と交わらないよう努めてきたのかもしれない。
齋藤は作家に対し、作品に関する具体的なアドバイスをすることがほとんどない。「採用」と「没」の二つの返事をするだけだが、タイトルに対してはこだわりがあった。
(略)齋藤さんは作品全体について『あれはいいよ』とか、そういう感想をおっしゃることはありましたが、細かいことは指摘されません。
齋藤は作家に応じて純文学と大衆文学の才能を見極め、作品を書かせた。それはたしかだろう。週刊新潮を創刊すると、五味康祐や柴田錬三郎には大衆時代小説を求めた。齋藤が五味や柴田を使ってつかもうとしたのは、広く社会に浸透する文学の読者だと言い換えていいかもしれない。
「齋藤さんという人には、たしかに知恵がある。しかし教養がないからなぁ」(中略)「齋藤さんの知識や教養が尋常じゃないのは誰もが知っているけど、野平さんの教養はそれ以上だからね。頭の回転やキレのよさという点でも、野平さんのほうが上かもしれない。ご本人にはその自負があるんだろうね。でも、結局、齋藤さんにはかなわない。天性の部分なのか、別の要素があるのか、そこはわからないけど、齋藤さんには狂気めいた鋭さがある。」
「齋藤さんにとっては、週刊新潮もトルストイが根本にあるのだと思います。でもそれだけではなく、齋藤さんは音楽を聴いて、物事を感じ取る訓練をしてきたのでしょうね。うまく説明できないけど、小林(秀雄) 先生は『齋藤は音楽を聴いているから、こいつはイケる、こいつはダメだ、ということを感じ取っているに違いない』と言うんです。殺人事件報道の文字面を見ても、その裏に何があるか、という勘が働く。その微妙を嗅ぎ分ける力があると言っていました。
**人間嫌いと呼ばれてきた齋藤は、独特の感性で作家を峻別してきた。プライベートでは限られた作家としか付き合わなかった。**齋藤が心酔してきた一人が、川端康成だという。
「川端さんだけはオッケーなんです。僕は川端さんを担当していたからよくわかる。**中元や歳暮も他人には任せず、齋藤さんご自身が届けていたくらいなんだよ。川端さんと小林さんのところだけだったね、そんなことまでするのは。**僕の前の川端担当は菅原さんだったけど、中元や歳暮は腹心中の腹心の菅原さんにすら任せない。誰かに買いに行かせるでなく、ご自分で用意するので、中身もわからない。担当者の僕も連れず、一人で車に乗って鎌倉の川端宅へ出かけるんだ」
むろん誰もが認める純文学の大家なのだが、齋藤は川端のどこに他の作家にないその才を感じてきたのだろうか。坂本にそう聞いてみた。
「川端さんはおかしな人で、お宅に午前中にいくと髪にかんざしを挿している。齋藤さんは、ああいうクレイジー一歩手前のような作家をとても好きだったね。」
太宰治も認めていた。
齋藤はめったに作家を褒めない。しかし戦中から太宰の才能を認めていた。太宰治のことは絶賛した。
「**齋藤さん優等生じゃなくて、デカダンが好きだからね。そこを直感的につかまえる。とくに太宰は別格。**野平さんに担当をやらせていたけど、新潮社にやって来たときには齋藤さん自ら近くに飲みに連れていったほどだそうだよ。あの太宰が、齋藤さんの前では畏まっていたらしい。やっぱり齋藤さんは新潮で太宰の大ベストセラーをつくったものね。通俗的な小説新潮ならたまにヒットはあるけど、文芸誌でベストセラーを出すのは大変なんだ。齋藤さんはそれを次々とやっていったから」
他にも。
「(中略)**齋藤さんは名立たる作家をぼろくそに言う。だいたいの人を馬鹿にしているから、付き合いもしない。齋藤さんの付き合いは本当にごく限られていて、他はほとんどダメ出しをする。**保田與重郎だけには、一目置いていて、『保田は天才だ』って言い、戦中干されていた保田さんを復活させたのは齋藤さんでしかできなかったと思うよ。それくらいほれ込んでいたね」
「**齋藤さんは、それらすべての新聞を一人で読んですでに頭に入ってるんだ。小さな記事でも逃さず、チェックしていてね。**だから切り抜きを見た瞬間に、『これとこれがおもしろい』と即座に赤丸をつけていくんだよ。まるでトルーマン・カポーティの『冷血』みたいに、そこから取材をやらせる。で、テーマが決まると、僕らは僕らなりに仮タイトルをつけるんだけど、そのまま通ることはまずない。九割がた齋藤さんに直されるんだ。そのタイトルの直し方を見て、齋藤さんがどんな視点で記事をとらえているか、気づかされる。勉強になったよ。無言のうちに教えられているんだよね」
養子となった息子の談
「オジはすごい努力家でした。家にいるときは決まったスケジュールどおりにしか動きません。六時に起きて朝食をとり、それからゴルフ練習。雨だろうが雪だろうが、庭に出て、ザルに入った二百発のゴルフボールを打つ。それが終わると、風呂に入って必ずレコードの裏表を聴く。それから出社し、夜十時頃に家に帰ってくる。すると、また『おい、レコード』と、僕も四枚ぐらいのレコードを立て続けにいっしょに聴かせられるんです。毎日がそれの繰り返しでした。オジの音楽、絵画は、すべて独学です。ただ、あらゆるジャンルの本をくまなく読んでいました。絵画ならルノワール、ゴッホ、ミレー……。『トルストイを読め』と言われた小林秀雄さんじゃないけど、オジの読書量はすごい。あの努力は真似できません」
「キミたちは、僕が読みたい本をつくればいいんだよ」
編集現場で陣頭指揮を執った生前の齋藤は、どの雑誌でもそう語ってきた。そして、齋藤と接したことのある編集幹部たちはその齋藤の言葉を実践しようとしてきた。
つまるところ齋藤にとっては、新潮も芸術新潮も、生涯追い続けてきた趣味の雑誌にほかならない。「女、カネ、権力」のスキャンダルを追い続けてきたとされる週刊新潮も、根っこは同じだ。
齋藤本人が新潮社の幹部社員に繰り返し語ってきたように、**ごく平たくいえば、興味は「人間」なのだろう。それゆえテーマは限りなく広い。**また書籍、雑誌を問わず、誌面に必要なのは、作者や評論家本人のネームバリューではないという考えも齋藤の編集方針だった。
本の価値は、あくまで何を伝えるか、何を書くか、という作品の中にある。あたり前なのだが、その考えを徹底するにはけっこう骨が折れる。重宝してきた作家でも、著作に才能が枯れたと見れば、容赦なく切り捨てる。齋藤にはそんな怖さもあった。
「**齋藤さんは読者として自分自身の俗物的な部分を肯定しながら、ノブレスなものへの憧れを抱いてきた。**書き物は教養に裏打ちされた俗物根性を満たさなければならない。そういうものにしなきゃダメだと考えてきたのでしょう。人間はデモーニッシュな生き物であり、人の頭を割ってなかを見ると、ろくでもない存在であることがわかる。けれども、そこに光る何かを見い出す。それが下品にならない書き物であり、そこに齋藤さんの一種の価値観があるのではないだろうか」
伊藤が思いあたるその三要素について説明してくれた。 「一つは、ある種精神的貴族でありながら俗的な興味をお持ちであること。齋藤さんのなかにある高貴な教養への志向といえばいいのでしょうか。それでいながらその一方で齋藤さんは真逆の大衆的な興味をお持ちなのです。週刊新潮の編集方針とされる『女とカネと権力』への俗な興味、**齋藤さんは僕たちに『大衆が何を求めているか、自分のなかに俗物があるからわかるんだ』とおっしゃったことがあります。精神的貴族と俗物への二つの関心が、齋藤さんの体内に同時に併存している。**上から目線に立っているだけではなく、自分自身が俗世間に降りていける。私の勝手なイメージでいうと、齋藤さんはそこをダイナミックに移動しているのです」
「**二つ目は言葉のセンスです。齋藤さんの頭のなかには、古今東西の有名な本のタイトルや名台詞、箴言にいたるまでがビッシリつまっている。そのもと歌をちょっと曲げたり、変化させたりして独自のコピーにする。そういうセンスがありました。**たとえば『美しい日本の美しくない日本人』というワイド特集のタイトルがあったけど、これは川端康成がノーベル文学賞をとったときの記念講演『美しい日本の私』から引いている。有名な『人間は生まれながらの死刑囚』だって、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出てくる名台詞から引いている。齋藤さんはそんな言葉をいともたやすく引き出せるんです」
**三番目の齋藤十一の凄さは、黒子に徹したことでしょう。齋藤さんは生前、いっさい『これは俺がやった仕事だ』と言わなかった。**フォーカスにしても自ら『考えたのは俺だ』とは、ひと言も残していません。横柄っていうのとも少し違うけど、決して謙虚な方ではありません。つまり、編集者の仕事として何かを残すことを潔しとしない。**黒子の立ち位置をずっと徹底していました。新潮の編集長を名乗ってはおられましたが、それ以外の芸術新潮にしろ、週刊新潮にしろ、フォーカスにしろ、表に出てこない。それが齋藤さんの独特の哲学、人間観なんだと思うんです。**齋藤さんは出版界で唯一、文藝春秋の池島信平を意識していました。池島さんは文藝春秋を残したけど、齋藤さんはどの仕事をやったとは絶対に言わない。自分ではほとんど何も語らずに逝っちゃった。そこまで黒子に徹した人はいません」 その謎めいた仕事ゆえに神秘性が高まったともいえる。