20ページ程度の短いものだが、政党を全廃すべきだと主張するテキストをシモーヌ・ヴェイユが書いている。翻訳は『ロンドン論集とさいごの手紙』という本に収録されている。
ヴェイユは、真理は多数性より優先されるとする。物理法則や数学的な正しさを想定すれば、それらが多数決では決められないことは納得できるだろう。しかし、(ヴェイユはそのような言葉は使っていないが)「集合知」が上手く働けば、多数の人々の投票によって真理(に近い値)が導かれる確率が高くなるとも考えているふしがある。
ルソーが、国民の欲望を一個人の欲望より高く買っていた唯一の理由はこれであった。それは、ある量の水がたえず動きまわり衝突をくり返す分子の集まりであっても、完全な平衡と休止の状態を保つようなものだ。水は、物体の姿を非難しようのない正確さでうつしだしてみせる。水は、水平面を完全に示す。水は、水の中に沈められた物体の比重をまちがいなく知らせてくれるのである。<中略>荒々しい、激烈な流れにかき乱される水は、もはや物体を反映せず、もはや水平面を保たず、もはや物体の比重をも示さなくなる。
(シモーヌ・ヴェイユ著、田辺保・杉山毅訳「政党全廃に関する覚え書」勁草書房 )
ヴェイユはここで、水分子の集団全体を「コンピューター」として「水平面」や「物体の比重」の値を計算している、と解釈している。そして、引用部後半にあるように、集合知によって真理(に近い値)を得るためには、それがまともに機能するための環境が必要になる。つまり、水が不安定(=激烈な流れにかき乱される水)だと、水平も比重も計算できなくなってしまう。
一般的に、集合知が機能するには、ヴェイユの想定した水分子とは少し違って(1)メンバーが多様であること、と、(2)メンバーが個別に独自の判断をする必要があり、メンバー同士が話し合わないことが必要になる。そして(これは水も同様だが)(3)それぞれ多様であるメンバーの人数が十分にあること、という三つの条件が挙げられるだろう。この条件が揃えば、多数性によって真理(に近い値)が導かれる可能性が高くなる。
ヴェイユは、真のデモクラシーが成立するための条件を二つ挙げているが、これらは集合知の三つの条件のうちの二つと(ぴったりと、ではないが)ほぼ重なるだろう。
(1)社会的争点に対して、メンバー全員が自由に個別的な意思表明をすることができる(≒意見の多様性の確保)。
(2)メンバー同士が、感情的扇動によって結合していない(≒対話や議論ではなく自律した独自の判断の尊重)。
ヴェイユの視点から見ると、政党は、上記の二つの条件をどちらも破壊する(「集合知≒近似的真理」の条件を破壊する)ので「悪」であるとされる。
まず一つ目の条件について。政党があると、数の力によって、事実上議会を政党が支配することになる。なので、個としての議員は、実行可能性のある提案をするためには既成の政党に入るしかなくなる。議員は、自分の政治的思想にできるだけ近い政党を選ぶことになるが、完全に一致する政党はありえない。当然、ある個別事案については党と意見が一致するが、別の事案では一致しないということが起きる。その場合、決議などの際に、党の方針に従わねばならず、個人としての自由な意見表明ができないという場面があり得る。
つまり、政党が存在するという環境下では、実行可能な提案をするためには自由を一部放棄して政党に属さねばならず、自由を放棄しないのなら実行可能な提案ができない立場に留まるしかない、ということになってしまい、一つ目の条件(個別的な意思表明の自由)が成り立たなくなる。
次に二つ目の条件について。政党は感情的扇動の機械であるとヴェイユは主張する。政党は、立場や思想が近いとはいえ、完全には一致していない人々の集まりであるから、それぞれが達成したい目標にはブレがある。ゆえに、政党としての統一された目標は、どうしても曖昧化され、漠然とした概念にならざるを得ない。
この場合、個々の議員の目的は、自分の目的と完全に一致しているわけではない「抽象的な)政党の目標」の達成それ自体よりも、明確な数値目的となり得る「メンバーの増加(それに伴う政党の権力の増大)」が優先されることになりがちだ。つまり、目標となる事案の成立よりも、党の(仲間の数の)持続的拡大、さらに党としての勢力(権力)の持続的拡大の方が目的となってしまう。権力の増大が自己目的化する。支持者拡大のために信じてもいないキャッチフレーズを繰り返す感情的扇動は、現代の政治でも日常茶飯事だ。よって、二つ目の条件(感情的扇動によって結合しない)が破壊される。
以上の理由から、議員は政党を作らずに、それぞれ個別に活動し、個別の事案ごとに集合離散して一から合意形成するべきだと、ヴェイユは主張する。人々が、あるデモには行くが、別のデモには行かなかったりするように、その事案ごとに個別に賛否を表明すべきだ、と。そのため、むしろ「政党」というものを非合法化すべきである、とまで言う。
ここまでは、ヴェイユのテキストの概要で我々の意見は入っていない。ヴェイユの意見は「真理ではないこと=悪」のような少々飛躍した前提を持つ。だが、ここでの「真理」は、環境の客観的状態、のような意味で使われていて、それから外れることが「よくない」というのは、それほどおかしな仮定ではない。また、実行可能性はとりあえず無視するとして、政党全廃が必要であることの立論自体はそれほど不思議なものでもない。
ヴェイユの主張の現代的意義は何だろうか?彼女の議論から少し距離を置いて検討してみよう。
そもそも、「政党」が生まれる動機はどこにあるのか。
例えば、市場主義下の企業においては、皆がそれぞれバラバラに(自律的に)価格を決めることで市場価格が導かれるフェアなシステムを遵守するよりも、談合して独占価格を消費者に強制したいというモチベーションは常に存在する。だからこそ資本主義においては独占禁止法が必要であり、談合を監視する組織が必要となる。
同様に、議員たちが談合して「数の力」としての権力を得たいというモチベーションは常に存在し、政党を作る動機は常に発生する。だとすれば、ヴェイユの主張通りに政党を禁止するためには、人々の政治活動を厳しく監視して規制するための組織が必要になる。そして、監視と規制を行うにはそれなりの権力・強制力が必要である。しかしそのための組織を作るとなると、それは実質的に、人々の自由な政治的活動を弾圧する思想警察、秘密警察と何ら変わりないものになってしまうだろう。
つまり、政党全廃を強制しようとすると秘密警察を認めることになり、秘密警察による監視と規制を認めないとすると、政党が生まれてしまうことを抑制できない。故に、実際に政党の全廃を実行するのは簡単なことではない。
政党全廃をするなら、なぜ直接民主制ではなく、わざわざ代理となる議員を選ぶ必要があるのだろうか?
さきに触れた理由により、直接民主制下で政党全廃を実施しようとすると、恐らくとても窮屈な監視社会になり、一党独裁の国家で、禁止されている政党活動があるのと似たような状況になってしまう。誰もが他のだれかと政党を作ってしまうかもしれないからだ。
そこで「議員(代理)」というものの機能に対し、以下のような提案ができる。
政党活動を全国民に対して非合法化しようとすると、監視の困難が発生してしまうならば、対策として、監視対象を厳しく限定するということは考えられる。
つまり、選挙によって選ばれ、代議士となった人物は、その任期中に限って、政党活動を行うことが禁じられ、その点について厳しく監視される、というように。
ここで、提案1よりさらに強く、「選挙によって議員を選ぶ」というプロセスの主な目的を、通常考えられているような「有権者の意見に対する統計をとる」ということではなく、そもそも「政党禁止のための監視対象を限定する」ということだと考えてみることもできる。
対象人数を限定するのが主目的ならば、限定のプロセスを投票ではなく「ランダムサンプリング」にする、ということも(そもそも市民の意見を代表するための存在ではないので)検討の俎上にのせることが可能になる。
つまり、代議士も、陪審員と同じように、全ての有資格者(現状では被選挙権を持つ全ての人ということになる)の中からランダムに抽出される、とする。ここでは、このような議員を「サンプリング議員」と呼ぶことにしよう。
ランダムに選ばれたサンプリング議員は、特別な理由がない限り基本的に拒否権はないものとする。ただし、一定期間、望んだわけではない仕事を強いられ、厳しい監視下に置かれる代償として、平均年収の数倍相当の高い報酬が支払われるなど、厚遇が約束されることとする。
選挙によらない、サンプリング議員というシステムを採用することのメリットとして、以下のことが考えられる。
メリット1:政治活動に対する助成金や政治資金がいらなくなる
まず、選挙のための費用が必要なくなる。さらに、政党助成金も必要ない。また、企業や団体による(見返りを期待した)政党への政治献金に実質的な意味がなくなり、癒着を防止できる。議員個人に対する政治献金は厳しく規制される必要があるだろう。ただし、任期を一期かぎりと限定すれば、献金する意味がほとんどなくなる。
しかし、個としての議員による政治活動には資金が必要であるだろうし、望まない仕事を強いられていることに対する代償もある。なので、前述したように高い報酬や、議員としてのそれなりの特権、現状の文書交通費に当たるものの支給などは必要だろう。
メリット2:事実上、政党を全廃できる
勿論、国民一人一人の自由な政治活動として人々が集う「政党」を禁止することはできない。しかし、ランダム議員を採用した場合は「誰が」議員になるのかを事前に予測することがほぼ不可能であるため、「政党自身の権力拡大」および「政党内の権力闘争」が、議会に直接的に反映されることがなくなる。
メリット3:世襲による権力の偏り・世論からの乖離がなくなる
議員がランダムに選出されるので、いわゆる「ジバン、カンバン、カバン」に全く意味がなくなる。また、議員数の男女格差も自然に解消されるだろう。そもそも「有権者の意見の統計」という意味では、地盤があったり、地域経済の一部に密着した議員の存在はむしろ不要なバイアスでしかない。この観点でもサンプリング議員の方が通常の議員より有利だ。
メリット4:権力者たちが共謀して国民(世論)から乖離することが難しくなる
現状では、過半数の議席を取ってしまいさえすれば、与党は、少なくとも次の選挙までは「国民からの反対」を無視して法案を強引に通すことができてしまう。また、「民意」とは全く無関係に、安定多数を取るという目的のためだけに複数の勢力が(例えば自民党と公明党とが)支持基盤とは無関係に共謀することができてしまう。
しかし、サンプリング議員が共謀しようとする場合、個として、他の議員一人一人と交渉し、一から関係を築く必要があるし、その関係も一期で終わる。
次に、デメリットについて検討する。
デメリット1:人口の少ない地方代表の議員が減ってしまう。また、マイノリティや少数派の議員が選出される確率が低くなってしまう。人口比が多い層(属性)が有利になり、多様性の確保が難しい。
ランダムサンプリングの場合、人口の多い地域の議員、人口の多い層、人口の多い属性を持つ人、などが議員になることが多くなってしまう。マイノリティの意見が反映されなくなる危険があり、また、その場合「集合知」に必要な多様性も確保できなくなる可能性がある。
ただ、この点については、(1)地方による人口比の違いや、世代間の人口比、の違いなど、「違い」が顕在的である場合は、抽出のプロセスで重みづけを変えるなど、マイノリティが不利にならないように、サンプリングの仕方で一応調整、対策が可能だ。
しかし、(2)セクシュアリティや「内心」の問題など、必ずしも「数」として顕在化されない(顕在化を強いることができない)個人の(内的な)属性に関する多様性の確保については、改めて考える必要があるだろう。
さらに、(3)社会に流通する政治的言説の対立や配置を、「重みづけ」にどのように反映させれば良いのか、その必要はないのか、という問題もある。
(2)や(3)は、改めて検討が必要な課題と言えるが、(1)の人口比による世代間格差のような顕在的な少数派の不利を是正するという側面からみた場合は、抽出プロセスの重みづけを変えて配慮することができるの点で、むしろ現行の選挙制度より優れていると考えることもできる。
デメリット2:エリートが優先的に選ばれず最良のプランが実行されない(かもしれない)。
エリートによる「判断」が必ずしも優れているわけではないという疑問が、そもそも我々にある。ここでは「エリート」の決断として、例えば、意見の合わない党員を殺害したり、兵站不足にも関わらず戦争に突入する、第三帝国実現のために周辺国へ侵略する、などの「思い切った決断」のことを思い浮かべている。多くの場合、後から見ると、エリートのある派閥は結果的に正しいことを進言している(兵站不足なので開戦は不可能、など)が、別のエリートの派閥に押しつぶされている。どちらにせよ、エリートこそが最良のプランを持っていて、しかもそれを実現できるという前提は成り立たないことも多い。また、どの案が「正しい」のかは、後付けでしか判断できない以上、必要なのはリスクを取り過ぎない選択、制御を離れたエリートが出現しにくい仕組みだろう。
デメリット3:コネクションに基づいた動員ができずプランの実行が遅くなる
政権与党が安定多数の議席を抑えている場合、法律や制度の立案から実行までがスムーズに行われ、喫緊の課題に柔軟かつ迅速に対応できる。だが、一人一人の議員がバラバラである場合、過半数の合意を形成することが困難であり、それが可能であっても時間がかかることが予想される。
ただし、このことはメリットの「4」と裏表の関係にあり、権力を持った与党が民意と乖離した政策を強引に押し通してしまうことを防ぐために必要なコストとも考えられる。そもそも、既存の与党が本当にいつも「喫緊の課題に柔軟かつ迅速に対応」しているのだとしたら、本稿が書かれるようなモチベーションが発生しない。2のエリートによる決断とも関係するが、システム全体の良き運営を目指すエリートと長い癒着関係から私利を目指すエリートを、個別ケースで識別するのは難しい。だが、後者である確率が癒着関係の持続と共に上昇する、程度のことは仮定していいのではないだろうか。
デメリット4:外交に必要な政策の一貫性や、防衛に必要な戦略的秘密を確保できない
主に外国との関係において、政策の大きな方向転換があまり頻繁にあることは望ましくない。しかし、とりあえずここまでの議論では、政治家とは別に官僚機構が存在する。だから、国としての最低限の方針の持続性は維持できると考えられる。
ただし、軍事や防衛、安全保障に関する戦略については、事の性質上、全てを透明にするとは困難で、どうしても秘密事項が必要となる。ランダムに選ばれた議員にそれを預けてしまうことは危機管理上望ましくないかもしれない。同時に、安全保障上の戦略的な秘密を官僚に任せ切ってしまうことも危険だろう。
この点については、安全保障上の秘密事項に関して、例えば30年経過した後に全て開示して、それに関わった官僚が民意を裏切っていなかったか、事後的に責任を追求できるようにするなど、何かしらのチェック機構が必要になる。
以上、メリットとデメリットを検討した。ただ、ここで、デメリットとして挙げたことがらも、必ずしも顕在化されない(顕在化が望ましいと言えない)少数者の意見が反映されにくいことと、安全保障条の秘密の維持がむずかしいことを除けば、デメリットとも言えるが、メリットと考えることもできる、という両義的なものだろう。
前節で検討したデメリットの4と深く関わることだが、専門知識を持たないサンプリング議員は、結局は、選挙と無関係に存在する官僚機構の言いなりになってしまうのではないかという懸念がある。そうなると、現存存在する政治家による制御すら無くなり、事実上は官僚による無期限代議士制になってしまって、元も子もなくなる。
ただ、官僚もまたそれ自体「政党」のようなものだとみなすならば、政党に関するヴェイユの議論が官僚についても当てはまる。つまり、官僚が官僚である限り、「政党」的な行動が制限されるような監視の対象になる。
あるいは、官僚が行う仕事の多くの部分はむしろAIが得意であり、AIによって官僚の仕事を代替することも可能なのではないだろうか。
将来を見据えた長期プランの立案は、本来ならば官僚ではなく政治家の仕事であり、官僚の仕事は政治家のヴィジョンを現実化するための、様々な現実的な調整(例えば、ある法案を立法する際の、既存の関連法や判例との調整など)だろう。この場合、議員がAIと相談しながら法案の細部を煮詰めていくことが可能であれば、議員の官僚への依存度は相当低くできる(そもそも、現状のままでも、これからは官僚がAIと相談しながら法案を煮詰めていくことが多くなるだろう)。
この場合に問題になるのは、官僚による支配であるより、そこで使用されるAIの安全性や公正性をどのように担保するのかということだ。つまり、AIによる計算過程に何らかのバイアスが生じていないかを検証するための、(外部に透明な形で、特定の利害関係者なく)実行可能なメカニズムを確保する必要がある。
この点について、VECTIONが提案する「マルチレイヤーサイクル」という考え方が役に立つのではないかと考えている。
VECTIONでは、自分自身の意思や思想を持たず、支持者たちによるその都度の投票や議論の結果に従って行動するbot議員という代議士のあり方を提案したことがある。「投票日の天気」のような「偶発事」に大きな影響を受けるにも関わらず、次の選挙さえなければ議席が維持され続け、世論を無視して決定を下し続けることができてしまう、民意の反映に関して極めて遅くて粗い現状の代議士制に対し、より細やかに民意を反映させることを意図したシステムだ。
本稿で提案するサンプリング議員を実現させるためには、憲法の改正までを含む様々な制度の大胆な変革が必要だが、bot議員ならば現行法にもある程度馴染む。故に当面はbot議員というあり方が次善であると言える。しかしbot議員においては、あるbot議員を支援するメンバーたち、そのコミュニティそのものが政党化、あるいはカルト化する可能性があることを否定できない。
そもそもbot議員は、現行法に大きく手を加える必要がないことから、「代議士」という既成のインターフェイスをハッキングするように使っているだけであって、より理想的には、個別論点ごとに集合離散する形(サンプリング議員)の方が望ましいと考える。
ただし、人が政治に「参加する」ためのモチベーションを保ち、アップさせるために、AIによって補強されたbot議員たちによる議論や討論、あるいは勝敗を意識したディベートなどの形式は、一部として残した方が良いかもしれない。
bot議員が未だ存在しない現在の状態において、「政党」の力を抑制するために、まず実現可能なやり方として、国会や地方議会での投票時、政党による縛りを解いて、無記名で投票することを義務付ける、という単純な方法が考えられる。単純ではあるが、ヴェイユの元の意図である、多様性による集合知の機能発揮は、これでもかなり達成できると思われる。
次に、bot議員が既に存在していると想定した場合はどうすればいいのか。この場合は、記名投票にしないと、投票を代理するだけの存在であるbot議員が支持者の投票や議論に従って投票したのかを確認できなくなってしまう。
bot議員の場合、そもそも政党には縛られていないし、その支持者たちによる投票や議論の過程も透明になっているので、記名投票にしても問題がないのかもしれない。しかしそれでも、bot議員同士が協調して政党を作ってしまう可能性と動機は存在する(bot議員の支持者コミュニティが、他のコミュニティとの協働による勢力拡大を狙うことを選択するなど)。この場合、「代議士は政党活動禁止」という制約がやはり必要となるだろう。
議員を支持する支持者たちのコミュニティとの繋がりを持っているbot議員と、完全にランダムに選出されるサンプリング議員とでは、あり方が根本的に異なる。bot議員は民意の迅速な反映を目的としていて、自分の意志で行動することは許されない。逆に、サンプリング議員は「政党」を無効化して集合知を有効化する「個」としてあることを目的とし、(AIなどによる支援を受けたとしても)自分の意志で行動する。また、bot議員は現在の制度を大きく変えなくても実行可能だが、サンプリング議員の実現には大幅な制度の改革が必要になる。なので例えば、手始めに全議員の10パーセント程度にサンプリング議員の制度を採用して実験してみる、というようなことも可能だろう。
選出方法をサンプリングに置き換える対象を、最高裁判事や官僚にも拡大することは可能なのだろうか。どちらも癒着忖度が発生しやすいので、サンプリングに変える動機自体はある。
トランプの例に見られるように、アメリカの大統領による最高裁判事の推薦や承認は三権分立の脆弱性になりやすい。日本の最高裁も、国に不利な判決をなぜかほとんど出さないなどの問題がある。官僚もまた、もし民間に同程度の専門家がいるなら、やはりサンプリングにしたほうが、利権の絡んだ固着的な関係を作りにくい。
最高裁判事について少しだけ考えてみよう。官僚については、最高裁判事について考えることの、多様な種類の専門性を持つ場合への一般化となるだろうが、簡単にするため、ここではとりあえず無視する。
1:能力の問題
この場合、「能力の高い裁判官が選ばれる」(従来の制度)ことと「政治に忖度するリスクが軽減する」(サンプリング)こととのトレードオフということになるだろう。しかし、「裁判官の能力」という概念は曖昧であり、「特に能力の高い少数の者」を選ぶのではなく、「多様性を考慮した100人」を選ぶ方が(能力的にも)良い(ランダム抽出)、と考えることも可能なので、結論は、その辺りの研究結果に依存するだろう。
2:決定方法の問題
判決決定の方法は、議論ではない方が望ましい。議論では、空気を読んだり、より圧が強かったり、口が上手かったりする人の方に引っ張られて、多様性がなくなってしまう。
100人の裁判官が、それぞれ個別に独自の判断とその理由を示し、AIがそれらを統合し、さらに法律や判例との整合性を考慮した上で判決文を書くという方法が素朴には考えられる。100人の裁判官はそれに対し(無意味な意義を防ぐため何らかのリソースを消費して)異議申し立てが出来るという、AIへの制約を付け加えることもできる。
この時、当然、AIのもつバイアスや、判断の暴走の抑制が問題となるだろう。対策として、判決決定に使うAIの出自を多様にする、思考プロセスを全て公開する、などを行うと、なぜ、その判決なのか?に答えられる分だけ、改善するかもしれない。
3:異常な判決の問題
例えば、AIが「国民全員死刑」というあまりに突飛な判決を出し、裁判官たちが何度異議申し立てをしてもその判決が変更されない、という場合にはどうすれば良いのか。
このような場合に備えて、判事たちには判決に対する拒否権を持たせておくということが考えられる。上記のような場合は、判事たちがAIの判決を拒否し、国民自身に「国民全員死刑」という判決の是非を改めて問うことが出来るようにしておくわけだ。。
4:結び
上記のように、現状の制度に比べると、踏むべき手順や手数が相当増えてしまうことになる。ここまでして最高裁判事までランダム抽出にこだわることにどの程度メリットがあるのか疑問に思われるかもしれない。ただし、多くの場合で国側に有利な判決を下してしまう日本の最高裁のあり方は相対化してみてもいいかもしれない。
CREDITS
原案・草稿:西川アサキ
文章:古谷利裕
画像:古谷利裕+掬矢吉水
推敲:VECTION